ダメ人間のつぶやき

日本大好きなダメ人間 MMORPGアスガルドやりながら愛国運動中!!

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玉砕までして戦った理由 

まいど。

日本の心をつたえるいい話シリーズ


玉砕(ぎょくさい)までして戦った理由

 一九〇〇年代半ばのお話です。
 日本はそのころ戦争をしていました。
 第二次世界大戦と言っていますが、日本では「大東亜戦争(だいとうあせんそう)」というのが正しい呼び方です。
 最近、いろいろな昔のく記録や資料がでてきてわかってきたことですが、実は日本は戦争なんかしたくなかった。
 だから、ぎりぎりまで何とか戦争をしないで済ませられないか、工夫をしていたのです。

 なぜ、戦争をしなければならなかったのでしょうか。
 日本は、江戸時代から明治時代になり、それまであまり付き合いのなかった世界の色々な国に交じってがんばってきました。
 でも残念なことに、日本ががんばって国として強くなり、いろいろな力がついてくると、それをジャマだなぁと思う国もでてきたのです。
 互いに、みんな自分の国と国民が大事ですから、どうしてもケンカになってしまうこともあります。

 普通なら話し合いをしたり、法律(ほうりつ)で解決(かいけつ)したりしますが、今も昔も、国と国の間では、全部がそれで解決できるわけではないのです。
 もちろん、今は昔よりも話し合うことができるようになっています。
 でも、あの時代は、今よりも、もっと話し合いがむずかしい時代で、いろいろなことがあったのです。

 そして、とうとうそれまで日本ががんばってきたことをジャマだなぁと思っていた国々は、日本が国際連盟(こくさいれんめい)というところで人種差別を止めようと言ったことに反対したり、それまでがんばってきたことを全部やめてしまえ、ひっこめと言ってきたりするようになりました。

 日本には資源(しげん)がありません。
 だから、たとえば電気などは水力発電所(はつでんしょ)や原子力発電所もありますが、そのほとんどを火力発電所で外国から輸入した石油を燃やして作っています。
 他にもたくさん外国からいろいろな材料を買い、製品を作って外国に売ったり、技術を進めてそれを外国で発揮(はっき)したりしてお金を得て生活しています。
 資源がないのは、昔も同じでした。
 日本は外国と貿易をしてお金を貯めたり、そのころは軍隊(ぐんたい)があったのでもっと強くしたりして、日本よりも強い国々と同じになろうとしていたのです。

 だから、他の国とケンカすることもありました。
 国と国がお互いに強い国になろうとしている時代ですから、それが戦争になることもある時代でした。  
 実は、大東亜戦争(だいとうあせんそう)の前に仕方なく戦争になったことも三回あったのですが、それは別の機会にお話しします。

 日本は、もともといじめっ子のように自分だけが強くなればよいと思っていたわけではなかったので、やはり貧しく力の弱かったアジアの国々と一緒に、みんなで力を合わせて豊かになろうと考えていました。
 日本には天皇陛下(てんのうへいか)がいらっしゃるので、天皇陛下に中心になっていただいていろんな国の人たちが仲良く生活できればとも思っていました。
 でも、日本のそういう考え方がジャマだなぁと思う国々とはなかなかうまく仲良くいきませんでした。
 みんな、自分の国が一番強くなることが大事な時代だったからです。

 やがて、そういう国々は、日本がそれまで買っていた石油とか色々なものを売ってくれなくなりました。
 そして、前にも言ったように、いくつかの国が、ひっこめ、と言い始めたのです。

 今では昔ほどではありませんが、昔は白人の国はアフリカやアジア、南アメリカの人たちを低く見ていました。
 肌の色が黒い人たちをいドレイにして売ったり、肌が黄色い人たちのいた地域を植民地(しょくみんち)という自分の国の子分のような状態にしたりしていました。
 それらのと人たちは嫌ですから、白人の国とケンカしたりもしたのです。

 けれども白人の国はよ強かったので、いつも負けていました。
 そんな時に肌の色が黄色い日本人の国が強くなったので、そういうこともあって、ひっこめ、と白人の国は言ってきたのです。
 白人のに国は強かったのです。
 戦争になれば負けるかもしれなかった。
 そして、白人の国は、それまでのように肌の黒い人たちや黄色い人たちを子分にしておきたかったのです。

 さて、みなさんならどうするでしょうか。

 日本はどうしたでしょうか。

 日本は、嫌だ、とい言いました。
 でも、ケンカは仕方がないにしても、戦争は嫌でした。
 天皇陛下も戦争はお好きではありませんでした。

 だから、ぎりぎりまで戦争をしない工夫をしたり、話しあいをしようとしていたのです。

 それはうまくいきませんでした。
 そして、大東亜戦争がはじまりました。
 これからお話するのは、日本がそういう時代だったころのお話です。

 大東亜戦争のころの日本の軍隊の歌に、次のような歌があります。
 みなさんには少しむずかしいかもしれません。

            「敵は幾萬(いくまん)」
 敗れて逃ぐるは國(くに)の恥 進みて死ぬるは身のほまれ
 (負けて逃げるのは恥ずかしいことだから、最後まで逃げ出さないで戦おう。それが日本人の誇りだ。)

 瓦(かわら)となりて殘(のこ)るより 玉となりつつ砕けよや
 (誇りのない人間になって生き残るよりも、誇りある日本人として最後まで戦おう。)

 畳(たたみ)の上にて死ぬ事は 武士のなすべき道ならず
 (自分の家で死ぬことばかり考えるのは、さむらいのやることではない。)
 

 この歌は明治十九年(一八八六年)の歌です。
 明治時代の歌ですから、今とはちょっと考え方が違います。
 ちょっと前までは、日本人の間でも戦いが多かった時代ですし、武士道(ぶしどう)というさむらいとしての生き方が、まだ普通にどこにでもあった時代です。
 「玉となりつつ砕けよや」というのは、最後まで、死ぬまで戦うという意味です。
 これを短くして「玉砕」といいますが、このことについて、今日はお話をします。

 この歌で言っているように、戦いのときに「玉砕」する、最後まで、死ぬまで戦うというのはさむらいの生き方のひとつだという考えかた方もあります。
 大東亜戦争では、たくさんの兵隊さんが「玉砕」しました。
 軍人だった日本の首相が書いた「戦いの戒(いまし)め」の中に、「生き残って敵につかまるような恥(はじ)をかいてはならない」という文章があったりするので、日本の軍人・兵隊は大切な命を捨ててムダにすることになった、と言う人もいます。
 そして、大東亜戦争中、勝つことも、救い出すことも、相手を弱らせることもできないような場面になった時に、たくさんの日本の軍人・兵隊さんが間違いなく死んでしまう「玉砕」という戦い方をしたことは、よく、日本軍やその司令部が生命を大切に思っていなかった証明のように言われることが多いのです。

 大東亜戦争で起きた「玉砕」は、わかっているだけで十四回のほか、「特攻」とか「戦艦(せんかん)大和(やまと)」などの例もありますが、それはまた別の機会にお話しします。
 みんな、どれも哀(かな)しい戦いでした。
 哀しい戦いでしたが、でも、それは本当に生命が大切にされていなかったからだったのでしょうか。
 命令があったからなのでしょうか。

 「戦いの戒め」、正しくは「戦陣訓(せんじんくん)」と言いますが、それに書かれていたから生命をムダに捨てたのでしょうか。
 ちょっと考えてみましょう。
 みなさんはそんなに簡単(かんたん)に死ねますか。
 そんなことで死ねるとはどうしても思えませんし、わからないことがたくさんあるのです。

 たとえば、もし先生から何のことかわからないまま、「自殺しなさい」と言われたら「はい」と言って死ねますか。
 先生でなくても、誰からであったとしても、そうしなさいと言われただけで死んでいけますか。
 たとえば、何かの決まりごとに「馬鹿にされるようなことになる前に死になさい」と書かれていたとして、バカにされそうになったら死んでしまうことができますか。

 日本人の心というものは、いまも昔も変わりはありません。
 「死になさい」といわれて「はい、わかりました。」と言ってすぐに死ねるほど、人間は簡単(カンタン)な生き物ではありません。
 生きていたいという気持ちは、今の日本人も昔の日本人も変わりありません。
 もし万が一自分は死ねたとしても、周りのみんなはどうでしょう?
 人間というものは、そんなに簡単に死ねと命令されたからといって死ねるものではないのです。

 軍隊で、自分よりも偉い人、上官と言いますが、その人に命令されたから
 「仕方なく」戦っただけというのなら、その上官が死んでしまったら、いなくなってしまったら、さっさと降伏(こうふく)し、戦争を止めて逃げ出す。
 人間というものは、普通ならばそうしてしまうでしょう。

 たとえば、アジア大陸で行われた昔の戦争や、支那(シナ 今で言う中国)の兵隊はどうだったでしょうか。
 一般市民から集められていた兵隊は、逃げ出さないように後ろから銃で脅されて仕方なく戦っていましたが、「これは負けるな」とわかると、みんな一斉に逃げ出しました。
 それどころではありません。
 その時にまず真っ先に逃げ出したのは、後ろで銃を持って脅していた兵隊なのです。

 実は、十四回の「玉砕」があった時、敵だった米国(アメリカ)軍は、その前に日本語で何度も降伏(こうふく)するように、戦いを止めて出てくるように呼びかけています。
 そして、大東亜戦争に負けた後で日本の学者やテレビ、ラジオ、新聞、雑誌などは、日本の兵隊は命令されたので仕方なく「玉砕」したのだと言っています。

 でも、前にも書いたように、兵隊に命令して、「仕方なく」「玉砕」させるなどということができないのは、みんなにもわかると思うのです。

 みんなの中には「戦争していた時だったからじゃないの。」と思う人もいるかもしれません。
 では、戦争をしている時だったら、戦っていたら「生きていたい」という気持ちを捨てられるか、想像(そうぞう)してみてください。
 たとえば、「恥ずかしい目にあうくらいなら自殺しなさい。」と言われたとして、そう言った人が先に死んでしまったら、いなくなってしまったら、「自殺しないといけない。」と思っていたとしても、みんなは自殺できますか。

 調べてみると、他の国の兵隊たちは負けそうになった時にはわりと簡単に戦いを止めて出てきています。
 では、最後まで戦った日本人というのは、生き物の人間として、他の国の人に比べてそんなに特別な人間なのでしょうか? 
 肌の色や髪の色、顔形は違っていても、生き物の人間としては変わらないと思います。
 ですから、同じ人間であるからには、日本人の兵隊にしても、そうそう簡単に心に決めてし死ねるものではありません。

 もう一つ付け加えると、「玉砕」するまで戦ったという例は、日本人の兵隊だけのものではありませんでした。
 陣地を守っている兵隊が最後まで降伏しないで、全滅するまで戦った例は他にもあります。
 たとえば、テルモピュライの戦いでのスパルタ軍の全滅。
 マサダ砦(とりで)でのユダヤ人の全滅。
 アラモの戦いでのテクシャン反乱軍の全滅など、他の国でも少しですがあるのです。
 でも、大東亜戦争の時のように、陣地を守っている軍隊が、どれもこれも全部「玉砕」の戦いをしたような例は世界史にはありません。
 
 どうしてなのでしょう。
なぜ、日本人の兵隊はそこまでして全員死んでしまうまで戦いつづけたのでしょう。

 ひとつには、日本人の兵隊が、捕虜(ほりょ)になればどんなことをされるかわからない、と思っていたのは事実だと思います。
 それまでの間に、敵が日本人に残虐(ざんぎゃく)なひどいことをした事件はたくさんあったのです。

 でもね。みなさん、考えてみましょう。
 もし、みなさんに幼い弟や妹がいて、いじめられていたり、いじめられそうになっていたら、お兄ちゃんやお姉ちゃんとしてどうしますか。
 もし、好きな女の子がいて、いじめられていたら、男の子としてどうしますか。
 その逆でも同じです。
 もし、友達がいじめられていたら、男の子でも女のこ子でも、何とかしてあげたいと思いませんか。
 相手がとても強くて勝てなさそうでも、いや勝てなくても、弟や妹や好きな女の子が逃げる時間を稼ぐためにケンカしませんか。

 兵隊さんは大人の男です。
 だから、子供たちとか、奥さんとか、恋人とか、両親とか、友達とか、守りたい人もたくさんいたのです。
 その人たちが住んでいる日本を、自分たちが守るためにそこにいて、その陣地を守っていて、一日でも長く敵を食い止めたら、その分その人たちの生命を守れる。
 一日でも長く生きてもらうことができる。
 自分はここで死ぬかも知れない。
 たぶん死ぬだろう。

 でも、その代わりに一日でも長くここで敵と戦っていれば、みんなに一日長く生きてもらうことができるかもしれない。
 みなさんが家族や好きな子を守りたいと思ったのと同じに、日本の兵隊さんたちはそう思っていたのです。
 ここで、自分たち日本の兵隊が最後の一人まで戦い、日本人というのはすごいと思わせることができたら、もしかしたら途中で戦争を止める話し合いができるかもしれない。
 もうやめよう、となるかもしれない。
 そうしたら、みんなが死ななくて済む、と思っていたのです。

 命令されたから最後まで戦ったのじゃありません。
 誰かに何か言われたからその通りにしたのでもありません。
 「戦いの戒(いまし)め」なんて何の関係もありません。
 日本の兵隊さんは、みんな一人ひとりが「守りたい」と強く思ったのです。
 大事な人、愛する人、そしてそれらの人が住んでいる日本を「守りたい」「守らねばならない」と、本気で心の底からも思ったのです。

 そのために、食べるものも、飲み水も、武器も、お薬も、何にもなくて、辛くて大変なのに、とうとう最後には「玉砕」するまで生命をかけて戦ったのです。
 自分たちが死んでも日本で生き残る人のために。
 そして、それは将来生まれてくる日本人のために。

 そうです。みなさんのために。

 その昔、日本の兵隊さんは最後の一人になってもそれでも死ぬまで戦い、遠い外国で亡くなった。
 そういうことが昔あったのだ、とみなさんには心の片隅(かたすみ)に覚えておいて欲しいのです。

 ぼくたち、戦争が終わった後に日本に生きている日本人は、みんな、昔そうやって亡くなられた二百万人の心、魂(たましい)に守られたのです。
 そして、「守りたい」と思っておられたその心、魂を忘れず、これからも平和であかるくそして誇り高く生きていくことが、ぼくたちにできる恩返しなのだと思います。
 みなさんにそのことを知ってもらいたい、そして忘れないでいてほしいと、心から願っています。

おしまい。



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皇紀2670年3月7日

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テーマ: 歴史

ジャンル: 政治・経済

天秤棒を担いで270km 日本オルガン物語 

まいど。

昨日は津波が予報ほどの規模のものではなく、大きな被害もなく良かったです。

津波警報・注意報でTBSだけが「対馬」を表示せず
http://rocketnews24.com/?p=26221


昨日は1日中テレビ放送には日本地図と警報情報が表示されていましたが、なんと、、TBSは日本列島から対馬を削除した地図を終始表示していたようです。
TBS内部はほとんど在日朝鮮人に支配されていることは有名ですから、このような小細工は今後も続くことでしょう。
ありもしない韓流ブームをいつまでも続けておりますから、、、、

昔見た映画「ネゴシエイター」を見たくて昨日見ておりましたが、日本地図が邪魔でした、、、
放送局、やりすぎでしょ、、、、


フィギュアスケートのヨナのありえない高得点には世界中が呆れているのではないでしょうか、、、


それでは前置きが長くなりましたが、本日はいい話をお届けいたします。
中学生向け という設定でお願いいたします、、、


天秤棒を担いで270km 日本オルガン物語

山葉山葉寅楠

 「ヤマハ」といえば、いわずとしれた楽器メーカーです。
 今では自動車のエンジンやバイク、クルーザーなども作っている世界的なメーカーです。


 ところで、皆さんは「ヤマハ」というのが、創業者の名字を由来としている事を知っていますか。
 山葉(ヤマハ)という称号は、創業者である山葉寅楠(やまはとらくす)の名字からとったものです。
 寅楠という名前は、南方熊楠(みなかたくまくす)という高名な植物学・民俗学者や、横井小楠(よこいしょうなん)という儒学者・政治家に習い、楠木正成にならって付けられた名前なのだそうです。

 「ヤマハ」の創業時の名前は「山葉風琴製造所(やまはふうきんせいぞうじょ)」です。
 「風琴(ふうきん)」というのは、オルガンのことです。
 オルガンを“風を送って音を出す琴”という楽器として捉えていたのだと考えられます。

 創業者の山葉寅楠は、嘉永4(1851)年、紀州徳川藩で生まれました。
 父親は、天文暦数や土地測量・土木設計などの天文方を勤めていた人です。
 山葉寅楠は、宮本武蔵のファンでもあったようです。16歳で二天一流の修行に出たそうです。

 しかし明治維新で家が没落してしまいました。
 山葉寅楠は、二十歳のときに大阪に出て、時計や医療器具などの精密機械修理を学びます。
 学んだのは良いのですが、肝心の仕事がありませんでした。
 彼は技術者として職を求めて、全国各地を転々とします。

 そんなときに、山葉は、友人から静岡県浜松市で県立病院の修理工を捜しているとの知らせをもらいます。
 明治17(1884)年、寅楠35歳のときのことです。

 静岡県の県立病院で修理工として働いている頃、明治政府の意向で小学校に随意科目として唱歌科がもうけられていました。
 浜松尋常小学校(現・浜松市立元城小学校)でも唱歌のためのオルガンを輸入しました。

 輸入したオルガンはもちろん外国製です。
 しかもとても高価な品物です。
 当時としては珍しい物でもありましたので、この高価な風琴(オルガン)を、小学校が買ったことは、静岡県中に広まります。
 そして、各地から大勢の人が見学に訪れました。

 ところが、このオルガンは、すぐに故障してしまいました。
 修理したいのですが、この外国製の輸入オルガンの部品もなければ、修理ができる人もいませんでした。
 とても高価な貴重品です。
 万一修理に失敗でもしたら、それこそとりかえしがつきません。

 困った小学校関係者は、ある日、浜松県立病院に精密機器の修理工がいるという話を聞きつけます。
 そして、精密機器修理工である山葉寅楠のもとに、オルガンの修理依頼が来ました。
 時計や医療器具のような精密機械を修理のできる山葉寅楠なら、初めてであっても大きなオルガンを直せるだろうと、学校関係者は考えたわけです。

 今にしてみれば、かなり乱暴な話ですが、日本国内でオルガンを製造していない時代の人たちにしてみれば、まさに真剣そのものです。
 そして、山葉寅楠にとっても、そんな見たこともない貴重なオルガンを、どうやって直すのか知っているはずもなく、とても不安な気持ちでいました。

 周りの人が心配そうに見守る中、寅楠は、オルガンを点検します。
 そして内部のバネが二本壊れているだけだとすぐに見抜きました。
 そして、面白いことに、寅楠は、「これならバネだけでなく、オルガンそのものも俺にも作れそうだ。」と思い立ちます。

 「アメリカ製のオルガンは45円もする。自分なら3円ぐらいでつくることができる!」
 そのように寅楠は思ったそうです。

 明治10年代の白米10キロの値段が50銭です。
 今だと5000円くらいの値段ですので、単純に貨幣価値換算をするだけでも、オルガン45円は45万円になります。
 当時は台数も少なく、誰でも作れるものではありませんでしたので、今での450万円ぐらいの値段以上の価値があったかもしれません。
 そのオルガンをわずか15分の1の値段で作れると寅楠は考えたのです。一度も作った事がないのにも関わらずです。

 そして、寅楠は決心します。
 「将来オルガンは全国の小学校に設置されるだろう。これを国産化できれば国益にもなる。」
 この寅楠の考え方は、非常に興味深いと言えます。
 オルガンの市場性や自分自身の利益のみに着目するのではなく、オルガン作りが「国益になる」と普通に考えています。

 この時の寅楠は、政治家でもなければ、大企業の社長でもありません。
 ただの精密機器の修理工です。
 その一介の職人さんの意識の中にも、自分の行動を「お国のために」と考えるという精神構造があったのです。

 寅楠の活躍した時代は明治の始めです。
 つまり、寅楠は江戸時代に教育を受けた人です。
 江戸の昔から、日本人には、「国のため」「公益に尽くす」という考え方があったのです。
 よく「お国のため、という思考は、大東亜戦争直前の軍国主義教育のたまものである」という人がいます。
 しかし、この寅楠の考え方をみると、戦争だから、軍事主義教育だからではなく、当時は普通の事として、国のために何かをするという考え方が庶民の中にもあったのです。

 さて、オルガンを初めて見た翌日から寅楠は、来る日も来る日もオルガンの内部を調べます。
 修理すべきバネだけではありません。
 いろいろな部分を細かく図面に書き写しました。
 日本では一度も作られた事のないオルガンを自分の力で作るために、設計図が必要だったのです。

 約一ヵ月が経って、ようやく何十枚もの図面を書き終えた寅楠は、壊れたバネの修理に取りかかりました。
 バネそのものの修理は、冶金術が発達していた日本では、そんなに難しい事ではありませんでした。
 寅楠の修理は成功します。見事にオルガンを直したのです。

 「山葉さん、すばらしい。ありがとう!」
 「いいえ、校長先生。私の方こそお礼を言いたいくらいです。おかげでオルガンを知ることができたのですから。」

 山葉寅楠も、内心喜んでいました。
 これでオルガンを作ることができるようになったからです。
 しかし、一介の修理工である寅楠には、オルガンを作るための資金がありませんでした。
 あちこち尋ね歩いて、協力を求めますが、多くの人が「おまえは気でも狂ったか」という中、5日ほどたったある日、寅楠は飾り職人である小杉屋の河合喜三郎をたずねます。
 そして「力を貸してほしい」と頼み込みます。
 河合喜三郎は「寅楠の熱意と腕にかけてみよう!」と決心して、協力する事にします。

 こうして、翌日から河合の小杉屋の仕事場を借りてオルガン作りが始まりました。
 とりあえず資金と場所は確保できたけれど、二人には満足な材料もなければ道具もない。
 あるのは、修理の時に製作した図面と、日本国産のオルガンを作ってやろうという情熱だけです。

 寅楠は朝4時から夜中の2時まで、ほとんど徹夜でひとつひとつ工夫しながら部品を作っていきました。
 そして二ヵ月かかって、やっとオルガンの第一号を完成させます。
 寅楠は、真っ先に元城小学校へ運び、唱歌の先生に頼んで弾いてもらいます。
 しかし、大成功という訳にはいきませんでした。

 「確かに形はオルガンだが、音がおかしい」
 先生に言われてしまいます。
 そうです。
 調律がなってないのです。

 しかし、無理もありません。
 ドレミの音階そのものが、まだ世に伝わっていない時代です。
 寅楠には、音がおかしいと言われても、何がどうおかしいのか、何をどう直せばいいのかが、さっぱり分かりません。

 そこで寅楠は、めげずに、今度は同じく浜松市内にある静岡師範学校(今の静岡大学教育学部)へオルガンを持っていきます。
 ですが、結果は同じです。
 「音がおかしい」と言われてしまいます。

 オルガンの命は音です。
 その音の何が、どうおかしいのか。
 河合と寅楠にも、肝心なところがさっぱりわかりません。

 「どうすればいいのか・・・。こりゃもっと偉い先生に聞いてみなきゃ分からんかもしれん。」
 寅楠と喜三郎の二人は、作ったオルガンを東京の音楽家に見てもらおうと話し合います。
 見てもらうのなら、音楽取調所(現東京芸術大学)がいいだろうと話し合いました。

 しかし、音楽取調所で、いったい誰に会えばいいのか。
 会うためには、どうすればいいのか。それすらさっぱり分かりません。
 今の時代のように電話なんてものはありません。
 もちろん携帯電話もない。
 104もない。
 インターネットなんてあるはずもありません。

 直接行ったところで、その偉い先生が会ってくれるかどうかも分かりませんでした。
 「とにかく行くしかないだろう。」
 二人は、そう結論付けると、天秤棒にオルガンをぶらさげて、浜松から東京までかついで運ぶことにしました。

 担ぐといっても、100kg近い重量のあるオルガンです。
 2人で協力しても、1人50kgを担がなければなりません。
 とても重い荷物です。
 しかも、道のりは東海道を270kmです。その距離を歩かなければなりません。

 雨の日は動けません。
 風が吹いたらあおられます。
 箱根の山越えは、ずっと坂道の難所です。
 いったい何日かかったのでしょうか。

山葉オルガン山葉オルガン1890年


 苦労の上、ようやく音楽取調所に着いた二人は、オルガンを教授たちに見せました。
 教授たちはびっくりします。
 国産でオルガンをつくってしまったことにも驚きました。
 そのオルガンを、浜松から東京まで担いできたことにも驚きました。
 そして、音が外れていることにも驚きました。

 音程が狂っています。
 音階もおかしい。
 これでは楽器としては使えません。

 西洋音楽を指導していた所長の伊沢修二は、
 「調律が不正解なんだ。あと一歩です。君たち音楽を学習していきなさい。」
 と言いました。

 伊沢所長は彼らのために、親切に宿泊所を提供し、音楽取調所で聴講生となることを許可してくれます。
 寅楠は、調律、音楽理論を必死で学びます。

 そうして1ヶ月後、浜松に帰った寅楠は、先に帰っていた河合喜三郎と協力して、すぐさま2台目のオルガンの製造にとりかかります。
 しかし、今度は途中で資金が底をついてしまいます。

 河合の妻は、資金集めのために親戚中をかけまわって借金をしました。
 河合の妻の衣服も、嫁入り道具の服から普段着まで、ぜんぶ質屋に入れてしまいました。
 残った1着は、着ている1着だけです。
 それを洗濯するときは、もう丸裸になるしかありません。

 そんな河合の親戚は、お前たち気でも狂ったのかと猛反対をしました。
 しかし、山葉寅楠と河合喜三郎は
 「今度こそ立派なオルガンをつくるんだ!」
 「日本の子供たちに音楽を届けるんだ!」
 と心に念じて努力に努力を重ねました。

 そして、二ヵ月後。
 とうとう第二号のオルガンが完成しました。
 「今度は大丈夫だ。しっかりと調律もした。これならきっと認めてもらえる。」
 二人は、そううなづきあうと、天秤棒にオルガンをぶら下げて、再び270kmの道のりを歩いて東京の音楽取調所に向かいました。


天秤棒天秤棒で荷物を運ぶ人


 再び、箱根の山を越えたオルガンは、伊沢所長の前ですばらしい音色を響かせます。
 「山葉さん、すばらしい! よくやりましたね。これなら外国製に負けない見事なオルガンです。これで、全国の小学校へ国産のオルガンを置くことができますよ。」

 やっとできた! 認められた!
 寅楠と河合は、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていました。

 この時代の男は、「男が泣くのは一生に1度だ。」と教わっていました。
 その大の大人のおやじが、うれし涙を誰はばかることなく流していました。

 そして、山葉寅楠はこのオルガンを、国産第1号オルガンとして、そのまま音楽取調所寄贈してしまいます。
 「伊沢所長のおかげで完成したオルガンです。どうか使ってください。」と言うわけです。
 資金がなくて借金だらけの2人が、気前がよくてオルガンを寄贈した訳ではありません。
 嬉しくて嬉しくて仕方がなかった気持ちを、寄贈と言う形にしただけの事です。

 この寄贈を喜んだ伊沢所長は、二人が造ったオルガンを、「国産オルガン製造成功!」と、あちこちに語ります。
 日本音楽界の最高峰「東京芸術大学学長」のお墨付きというレベルではありません。
 学長本人が宣伝をしてくれるのです。

 「国産オルガン製造大成功!」のニュースは、口コミで広がります。
 次第にオルガン製造の注文も来るようになりました。
 注文第1号は、静岡県から5台でした。

 その後も政府の方針によって、文部省唱歌を普及するために、オルガンの需要はうなぎ登りに増えました。
 山葉寅楠と河合は、「山葉風琴製造所」の看板を掲げて、本格的にオルガンの製造にとりかかります。

 わずか1年後には従業員は100名を超え、国内製造だけでなく、ロンドンにまで海外輸出するようにもなっていました。
 二人の努力と周囲の善意が実を結んだのです。
 国のために働こうとする気持ち、それが回りまわって自分のためにもなり、またその事が国のためにもなる。
 当時の日本はそういう社会でした。

 明治22(1889)年、山葉は、東京や大阪の楽器商社と協力して個人商店だった山葉風琴製造所を、「日本楽器製造株式会社」に改組します。
 そしてこの頃から、山葉寅楠はピアノの製造、国産化を目指すようになります。

 伊沢修二所長の紹介で文部省嘱託となった寅楠は、アメリカに渡り、ピアノ工場を見学して、部品を買い付けました。
 帰国した寅楠は、国産ピアノ第1号を作るべく、会社の総力をあげてピアノの製造にとりかかります。

 ピアノの部品には、アメリカで買い付けたものを使用したけれど、ピアノの生命といわれるアクション(響板)だけは日本で開発したものを使用しています。
 その理由は、日本に1人の天才がいたからです。
 響板の製造は、河合の親戚の河合小市が担当しました。
 小市は、後に「河合楽器」を創業した人ですが、この時はまだわずか11歳の少年でした。

 山葉寅楠は明治33(1900)年にはアップライトピアノ、明治35年にはグランドピアノの製造にも成功します。 そして山葉のピアノとオルガンは、アメリカのセントルイス万国博覧会で名誉大牌賞を受賞しました。
 オルガンとピアノの量産化で山葉寅楠は「日本の楽器王」と呼ばれるようになりました。
 山葉寅楠の死後、「日本楽器製造株式会社」は「ヤマハ株式会社」となり世界一の楽器製造を誇る企業へと成長していきます。

 オルガンを天秤棒で担いで、東海道を歩いて運んだ山葉寅楠と河合喜三郎。
 彼ら二人の努力が、全国の小学校にオルガンを普及させ、文部省唱歌を全国に広めました。
 その影響は、今現在でも人々の心に残っています。

 老人ホームに行くと、痴呆症が進んだ老人でも、文部省唱歌を皆で歌うと、目を輝かせて、一緒に歌います。
 歌っているおじいちゃん、おばあちゃんの顔は、そのときばかりは尋常小学校生の顔になっています。
 ヤマハのオルガンで歌った文部省唱歌は、彼らの少年少女時代の共通の思い出でもあるのです。

 何かを一緒にやった仲間というのは、生涯の友になります。
 これは寅楠と喜三郎だけの話ではありません。
 老人ホームで初めて会ったおじいさん、おばあさん同士でも、同じ文部省唱歌を歌った思い出が共有されることで、共通の友になれるのです。

 最近の小中学校では、昔からある文部省唱歌を教えなくなったと聞いたご老人が、嘆いてこんな話をしてくれました。
 「単なる歌かもしれないが、小さい頃の思い出の歌を皆と一緒に歌うのは楽しい。人は一人で生きている訳ではない。人と人との関わりの中で生きている事を思い出させてくれる。私の学校にもオルガンがあった。山奥の学校だったから山道の中を、おじさんたちがオルガンを運んできてくれる日を皆で楽しみに待っていた事を思い出しました。今の子供たちにも、こんな思い出を作ってあげてくれないかね。」

 山葉寅楠と河合喜三郎は、大企業の創始者として名前を刻むと同時に、日本で初めてのオルガン作りに成功した事で、多くの日本人の心に、共通の思い出を刻んでくれました。
 2人が作ったオルガンから始まった日本のオルガン物語、それは、日本の子供たちが、思い出の歌を一緒に歌い続けてきた歴史の物語でもあるのかもしれません。

おしまい。



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皇紀2670年3月1日

テーマ: 歴史

ジャンル: 政治・経済

日の丸(日本の旗) 

まいど。

日本の心をつたえるいい話シリーズ
(小学低学年向け)
(漢字にふりがながないので難しいかも、、、)


日の丸(日本の旗)
日の丸

日の丸には歌があります。

一 白地に赤く 日の丸染めて
  ああ美しい 日本の旗は
二 青空高く 日の丸揚げて
  ああ美しい 日本の旗は

この歌、発表当時の元歌は、次のような歌詞だったんです。

一 白地に赤く 日の丸染めて
  ああ美しや 日本の旗は
二 朝日の昇る 勢い見せて
  ああ勇ましや 日本の旗は

皆さんはどちらの歌詞が好きですか。


さて、皆さんは日の丸の旗にまつわる色々な話を知っていますか。


(1)明治政府の話
明治のはじめ、日本に来ていた外国の大使に、日の丸の旗は注目されたことがあります。
そして、フランスが、正式に政府代表を立て、明治政府に対して、「日の丸を500万円(当時の金額)で売ってほしい」と依頼してきました。

当時の明治新政府は、始まったばかりの政府です。
財政難で金はいくらあっても足りない時期でした。
明治政府にとって、500万円という当時の大金は、喉から手が出る程欲しいものでした。
ちなみに、江戸の幕末に、官軍(明治政府軍)である薩長側が立てた旗は「錦の御旗」、対する徳川幕府が使った旗が「日の丸」でした。

政府内部でも、大激論が起こりましたが、明治政府が出した結論は次の通りです。
「国旗を売り渡す事は、国家を売り渡す事になる。そんな事はできない。」
として、この申し出を断ります。

当時の明治政府が、500万円で売っていたら、フランスの旗と日本の旗はどうなっていたのでしょうか。
世界でも美しいと評価の高い日の丸が、日本の旗であり続けるのも、明治政府の人たちが、大切なものはお金を積まれても売ってはいけないという思いを持っていたからです。


(2) 日の丸の起源・最古の日章旗
日の丸の起源は古く、『続日本紀』には、文武天皇の701年(大宝元年)の朝賀の儀に関する記述に出てきます。
正月元旦、儀式会場の飾りつけに「日像」の旗を掲げたとあり、これが日の丸の原型で最も古いものと言われています。

現存する最古の日章旗としては、後冷泉天皇より源義光(新羅三郎)へ下賜された旗があり、これは、甲斐源氏宗家の甲斐武田家に家宝として伝えられました。
甲斐武田家日章旗甲斐武田家の家宝の日章旗

同じく中世の日章旗とされるものとしては、奈良県五條市(旧西吉野村)の堀家に伝わる後醍醐天皇下賜のものが知られています。


(3) 歴史に登場する日の丸
日本の旗である日の丸は、歴史上有名な場面でも登場します。
教科書にも載っている事があります。
鎌倉幕府成立前の、源氏と平家の合戦のとき、扇に描かれた日の丸の扇子を、那須の与一が射ち落したという話は国語の教科書で勉強します。

室町時代には勘合貿易という、日本と海外の貿易の時に日本の船の証として、船の船尾に日の丸が掲げられています。
豊臣秀吉から徳川家光の第3次鎖国令が出される1635年(寛永12年)までの間に行われた朱印船貿易で、日の丸は掲げられていました。
勘合貿易船勘合貿易船・・・船尾に日の丸があります

1673年には、江戸幕府が御城米廻船に船印として「日の丸」の幟を掲揚するよう指示を出しました。
1854年には、江戸幕府が「日の丸」の幟を日本惣船印に制定しました。
1860年の江戸幕府からの渡米使節団は、アメリカ・ブロードウェイで「日の丸」で迎えられたこともありました。

明治時代になると、1870(明治3)年、太政官布告第57号「商船規則」で、日の丸は、「御國旗」として規定され、日本船の目印として採用されました。


(4)日の丸の旗
日の丸は慣習上、日本の国旗としてずっと用いられてきました。
日の丸の赤は、太陽の象徴です。
四界を照らす太陽と同じです。
太陽の旗と形容される暖かさを感じされる旗です。

真ん中の赤い円は「丸」を示しています。
その丸には人々の環、輪、和を表しています。
皆が仲良く暮らしている意味が込められていると言います。
日本の平和で豊かな国柄を、日の丸が良くあらわしていると言われるのは、そのためかもしれません。

そして、周囲の白字は、汚れなき心、至誠、私心なき公共心、純粋、純白を表しています。
日本人が団結力を持ち、自分だけのためではなく、他人のために行動したり、親切な行動を自然にできると、世界から評価を受けているのは、私たち日本人が、この日の丸の旗の意味を、昔からずっと学んできたからかもしれません。

日の丸は日本の国そのものであり、日本人そのものであると皆が考えています。
式典や大切な行事の時に、日の丸を掲揚するのは、日本人皆でお祝いしたいと考えているからです。

日の丸は、実に素晴らしい国旗です。
ですが、皆さん、ただ白地に赤い丸を書けば、日の丸になると思ってはいませんか。
日の丸は、その寸法が詳しく決められています。
図にすると次のようになります。
日章旗の制式
美しく見えるように、その比率がしっかりと決まっているのです。


(5)日の丸の掲げ方
 日の丸は、日本の国を示し、日本人全体を示す旗です。
だから、皆さんにとって大切な入学式や卒業式では、いつも掲げています。
皆で大切な日をお祝いしたいからです。

それだけではありません。日本人全体のために働く自衛隊の基地には、いつも日の丸が掲げられていて、日本人の代表として、日本人を守ろうという気持ちを、その旗で示しているそうです。
他の公共機関でも日の丸の旗は掲げられています。

私たち一般家庭では、祝日に日の丸の旗を掲げています。
やっぱり、日本人全員で大切な祝日をお祝いしたい気持ちがあるからです。

でも、皆さんは正しい日の丸の掲げ方を知っていますか。きちんとルールがあります。

一  日の丸を門前に一本掲げるときは、家の外から見て左に掲げる。
掲げ方(門)

二  日の丸を二本交差して掲げるときは、外から見て左(旗竿の根本は右)の方が前
に出るようする。

掲げ方(二本)

三 高い建物やバルコニーなどから日の丸をたらして掲げるときは、旗竿を水平また
は斜めにして出し、旗の端が地面にふれたり、建物の壁にふれないようにする。

四 国旗は、およそ日の出から日没まで揚げる。雨天のときは揚げない。

五 国旗の掲揚、降納に際しては、起立、黙礼あるいは脱帽するなどして、敬意を表す。

六 弔意を表するときは、竿球を黒布で包み、旗を竿頭より少し下げる。

もちろん、一番大切なのは日の丸の旗を掲げて、皆でお祝いする気持ちなのですが、ルールを守ることも、日の丸に込められた「和」の心に通じるものがあります。


(6)大切な日の丸に日本人は集合しよう

日の丸は、日本人皆の旗です。
だから、日の丸を掲げる事は、皆と仲良くする事、皆と一緒に日本をより良くしようとの気持ちを表すことになります。

日の丸は、日本人皆の旗です。
だから、日の丸に一礼する事は、皆に感謝する事、皆の力のおかげで、自分が生きているという謙虚な気持ちを表す事になります。

日の丸は、日本人皆の旗です。
だから、日本人は日の丸の前に集合して、皆で仲良く平和を守るために生きていかなければなりません。

日の丸は大切な大切な
日本の宝物です。
日本人の宝物です。
日本人の心の宝物です。


おしまい。



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皇紀2670年2月16日

テーマ: 歴史

ジャンル: 政治・経済

「アロハ・オエ」のこと 

まいど。

日本の心をつたえるいい話シリーズから
小学低学年向けです。


「アロハ・オエ」のこと

ハワイというところを知(し)っていますか?

わたしたちの国(くに)から、お日さまがのぼる方に
大きく広々とした海があります。

太平洋(たいへいよう)とよぶ、その海のずっと向こうに、
四つの島(しま)が集(あつ)まったところが、ハワイです。

一年中花がさいて、おいしいくだものがたくさんとれる、
あたたかい、南の楽園(らくえん)と呼(よ)ばれています。

今は、アメリカという国の一つとして、
もともと住(す)んでいた人、アメリカの人、日本の人、
他(ほか)にも、様々(さまざま)な国の人たちが、なかよくくらしています。

そのハワイで、一番(いちばん)有名(ゆうめい)な歌(うた)が、
「アロハ・オエ」という、美(うつく)しいメロディーの歌です。
でも、この歌には、悲(かな)しい物語(ものがたり)があるんです。

今から二百年ほど昔(むかし)、ハワイはそこに住む人たちが、
いくつかに分かれてあらそいをしていました。

それを一つにまとめたのが、有名(ゆうめい)な「カメハメハ大王(だいおう)」です。

そのころ、アメリカやヨーロッパからも、この楽園を目指(めざ)して、
たくさんの白人(はくじん)たちがやってきました。

白人たちは、ハワイを自分(じぶん)の物(もの)のようにして、
もともと住んでいた人たちは、とてもこまっていました。

時(とき)が流(なが)れて、
ハワイは、カラカウア大王がおさめるようになり、
日本では明治(めいじ)時代(じだい)をむかえて、世界(せかい)の国々と、
かたをならべるほど強(つよ)い国になっていました。

カラカウア大王は、同(おな)じはだの色(いろ)をもった国、
日本となかよくなり、ハワイを白人から守(まも)るための
きめごとをするために、はるばる海をわたってやってきました。

日本の人たちは、アメリカとけんかをしたくはなかったので、
とくべつなあいだがらになることは、ていねいにことわって、
かわりに日本の人たちがハワイではたらくようにして、
少(すこ)しでも助(たす)けになるようがんばりました。

そして、カラカウア大王が病(やまい)でなくなったあと、
その妹(いもうと)のリリウオカラニが女王(じょおう)になります。

リリウオカラニ女王は、ハワイの人たちが、
幸(しあわ)せに生活(せいかつ)できるように考(かんが)えて、
白人たちの力(ちから)をおさえようとしましたが、
アメリカの人たちは、これをいやがり、
女王の住む、イオラニきゅうでんに向けて、
海からぐんかんのたいほうでおどしました。

女王は、たたかいで人々がきずつくのは
とても悲しいことだとして、女王をやめることにしました。
そして、ハワイをアメリカがおさめることをみとめたのです。

リリウオカラニが女王ではなくなっても、
おうえんする人たちがいます。

もう女王はいないというみせしめに、
アメリカの人たちは、リリウオカラニを、
イオラニきゅうでんにとじこめてしまいます。
そうして、ハワイという国はなくなってしまいました。

自分の国が他の国にうばわれてしまう。
あいする国の人たちが苦(くる)しい思いをする。
いつかまた、自分たちの手にもどるまで、
あいをいのりにこめてつたえよう。

リリウオカラニはそうした思いを歌にのこしました。
それが「アロハ・オエ」です。

いま、ハワイで使(つか)われている言葉(ことば)は、
アメリカの言葉、えいごです。
まちなみも生の仕方(しかた)もアメリカの形(かたち)です。

わたしたちが今話している言葉は、日本語(にっぽんご)です。
国がなくなってしまうということは、
言葉も、つたえてきたことがらもなくなってしまう。
そうならないように、今わたしたちができること。

しぜんを大切(たいせつ)にし、そこで生(い)きるわたしたちと、
それらを守(まも)ってきた人たちの思いを守(まも)り、
はずかしくない生き方(かた)ができるようにしましょう。


おしまい。



「アロハ・オエ」(意訳)
谷(たに)に降(ふ)り注(そそ)ぐ大粒(おおつぶ)の雨(あめ)
森(もり)の中(なか)を流(なが)れゆく
谷(たに)の花(はな)アヒヒ・レフアの
つぼみを探(さが)して
さようなら貴方(あなた) さようなら貴方(あなた)
木陰(こかげ)にたたずむ素敵(すてき)な人(ひと)
別(わか)れの前(まえ)に優(やさ)しい抱擁(ほうよう)を
また会(あ)えるその時(とき)まで





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「Aloha 'Oe」 Sandii(Only music)
http://www.youtube.com/watch?v=FcIWXMmb5Bc


皇紀2670年2月12日

テーマ: 歴史

ジャンル: 政治・経済

日本の武士像精神(エクゼターとエンカウンター) 

まいど。

本日は日本の心をつたえるいい話シリーズいきます。
中学生向けです。



日本の武士像精神
(エクゼターとエンカウンター)


二〇〇八年十二月七日、元英国海軍中尉サムエル・フォール卿(八九)は六十六年の時を経て、埼玉県川口市内の工藤俊作氏の墓前に、念願の墓参りを遂げ、感謝の思いを伝えました。
大英帝国海軍中尉サムエル・フォール卿は、戦後英国外交官を務め、その功績によって「サー」の称号を贈られている人物です。外交官定年退職後、一九九六年に自伝「マイ・ラッキー・ライフ」を上梓。
彼は、その本の巻頭に 
「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」
と記しています。

そしてサムエル・フォール卿は、工藤俊作氏を、「命の恩人である」として、自らの体験談を綴りました。

フォール卿サー・サミュエル・フォール


体験談

一九四二年三月一日、英重巡洋艦「エクゼター」(一三,〇〇〇トン)、「エンカウンター(一,三五〇トン)は、ジャワ海脱出を試みて日本海軍の艦隊と交戦し、相次いで撃沈されました。
そして両艦艦長を含む約四五〇人の英海軍将兵が漂流の身となります。

翌三月二日、午前十時ごろには、彼らは生存と忍耐の限界に達し、一部の将兵は自決のための劇薬を服用しようとまでしていました。
そのとき、偶々、単艦でこの海域を哨戒中であった日本の駆逐艦「雷」が、漂流している英国乗組員を発見します。
いかづち駆逐艦「雷(いかづち)」

日本の駆逐艦「雷」の乗員は二百二十名。
漂流する敵将兵は四百五十名余。
さらにこの海面には、敵潜水艦が多数徘徊しており、艦を停止させること自体、自殺行為に等しかったそうです。

しかし、「雷」艦長の工藤俊作少佐(当時)は、敵英国水兵の救助を決断し、艦を停止します。
そして敵兵を自艦に救助します。
工藤艦長工藤艦長

救助の時点で、工藤艦長は、英国兵達の体力が限界に達している事に気づきます。
そこで万一のためにと警戒にあたらせていた要員も救助活動に投入しました。

一部の英海軍将兵は、艦から降ろした縄はしごを自力で登ることすらできませんでした。
そこで、竹ざおを下し、いったんこれにしがみつかせ、艦載ボートで救助しようとしたが、力尽きて海に沈んで行く者もありました。
その様子を見た工藤艦長は、下士官を海に飛び込ませます。
そして、気絶寸前の英海軍将兵をロープで固縛し艦上に引き上げました。

サムエル・フォール卿は、当時の状況をこう回顧しています。

「雷」が眼前で停止した時、「日本人は残虐」と言う潜入感があったため「機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と頭上をかばうかのように両手を置いてうつむこうとした。
ところが「雷」は、メインマストに「救助活動中」の国際信号旗が掲揚し、ボートを下しました。
私はこの瞬間を、夢ではないかと思った。
何度も自分の腕をつねった。

さらに艦上ではサー・フォールを一層感動させる光景があった。
日本海軍水兵達が汚物と重油にまみれた英海軍将兵をまったく嫌悪せず、服を脱がせてその身体を丁寧に洗浄し、また艦載の食料、被服、全てを提供し労っていた。
当時「石油の一滴は血の一滴」と言われていた中で、「雷」の工藤艦長は艦載のガソリンと真水をおしげもなく使用させていた。

戦闘海域における救助活動というのは、下手をすれば敵の攻撃を受け、自艦乗員もろとも自沈します。
実際、そういうケースは多々あります。
だから、そうとう温情あふれる艦長でさえ、ごく僅かの間だけ艦を停止し、自力で艦上に上がれる者だけを救助するのが戦場の常識です。

ところが工藤艦長は違いました。
艦を長時間停泊させ、全乗組員を動員して、洋上の遭難兵を救助したのです。
しかも、その相手は味方将兵ではなく、敵将兵です。

それだけではありません。
工藤艦長は潮流で四散した敵兵を探して終日行動し、例え一人の漂流者を発見しても、必ず艦を止め救助しました。
この工藤艦長の救助は、戦場の常識ではありえないことだったのです。

そして、四百二十二名が救助されました。
救命活動が一段落したとき、工藤艦長は、前甲板に英海軍士官全員を集めて、英語でこう訓辞したといいます。

「貴官らはよく戦った。
貴官らは本日、日本帝国海軍のゲストである。」
そして艦載の食料の殆どを供出して歓待してくれた。

フォール卿はこの艦長への恩が忘れられず、戦後、工藤俊作艦長の消息を捜し続けてきたそうです。


 工藤俊作艦長の人生


工藤俊作艦長は、明治三十四年一月七日、山形県の生まれです。
工藤俊作氏は、明治四十一年四月に屋代尋常小学校に入学します。
明治四十三年四月十五日に第六潜水艇の事故があり、当時屋代尋常小学校では、校長が全校生徒に第六潜水艇佐久間艇長の話を伝えたそうです。
校長は、責任感の重要性を話し、全校生徒は呉軍港に向かって最敬礼しました。

工藤俊作氏はこの朝礼のあと、担任の先生に聞いたそうです。
「平民でも海軍仕官になれますか。」
担任の先生は、米沢興譲館中学(現:山形県立米沢中学校)への進学を勧めたそうです。
そして、工藤氏は五年間、現在の上新田にあった親類の家に下宿して、約三キロの道のりを毎日徒歩で通学し、念願の海軍兵学校に入学します。

当時、一流中学校の成績抜群で体力のすぐれた者が志すのは、きまって海軍兵学校への受験でした。
次が陸軍仕官学校、それから旧制高等学校、ついで大学予科、専門学校の順でした。
この時代、欧米の兵学校は、貴族の子弟しか入校できませんでした。

ところが、日本は、学力と体力さえあれば、誰でも兵学校に入校できました。
英国のダートマス、米国のアナポリス、日本の江田島、これらは戦前世界三大海軍兵学校の代名詞とされていたと言います。

工藤俊作氏は、大正九年に海軍兵学校に入学します。
その前年の大正八年、鈴木貫太郎中将(後の総理大臣)が校長として赴任していました。
海軍兵学校校長に着任した鈴木貫太郎氏は、大正八年十二月、兵学校の従来の教育方針を大改新しました。

・鉄拳制裁の禁止
・歴史および哲学教育強化
・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)

工藤ら五十一期生は、この教えを忠実に守り、鉄拳制裁を一切行わなかったばかりか、下級生を決してどなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導する姿勢を身につけました。
鈴木中将は 明治天皇が、水師営の会見の際「敵将ステッセルに武士の名誉を保たせよ」と御諚され、ステッセル以下列席した敵軍将校の帯剣が許されたことを生徒に語ったといいます。

海軍兵学校を卒業した工藤俊作氏は、駆逐艦「雷」の艦長として、昭和十五年十一月着任します。
工藤は駆逐艦艦長としてはまったくの型破りで、乗組員たちはたちまち魅了されたといいます。

工藤艦長の着任の訓示。
「本日より、本官は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する。」

乗組員たちは、当初工藤をいわゆる「軟弱」ではないかと疑いましたが、工藤は決断力があり、当時官僚化していた海軍でも上に媚びへつらうことを一切しませんでした。
また、工藤氏は酒豪で、何かにつけて宴会を催し、仕官兵の区別なく酒を酌み交わしました。
好物は魚の光り物(サンマ、イワシ等)で、仕官室の食堂には、めったに出ないので、兵員食堂で光り物が出る時、伝令の光り物と自分のエビや肉を交換したり、自ら兵員食堂まで仕官室の皿を持って行って「誰か交換せんか」と言ったりもしました。

工藤氏は日頃士官や先任下士官に対して、
「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな。」と口癖のように言っていたといいます。
見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ。」と誉めました。
このため、見張りはどんな微細な異変についても先を争って艦長に報告していたといいます。

2ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは、工藤を慈父のように慕いました。
「オラが艦長は」と自慢するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになっていきました。
艦内の士気は日に日に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していきました。

昭和十六年十二月八日に大東亜戦争開戦。
開戦の二日後、日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の「不沈艦プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈しました。

英国の駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助を始めました。
日本の航空隊は救助活動にはいると一切妨害せず、それどころか、手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送りました。
さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガポールに帰港する際にも、日本軍は上空から視認していたが、一切攻撃をしませんでした。
こうした日本海軍の武士道は、英国海軍の将兵を感動させました。

フォール卿は語ります。
艦長とモーターボートに乗って脱出しました。
その直後、小さな砲弾が着弾してボートは壊れました。
この直後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。
間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けました。
固唾をのんで見つめておりましたが、何事もせず去っていきました。

私たちは救命浮舟に5~6人でつかまり、首から上を出していました。
見渡す限り海また海です。
救命艇も見えず、陸岸から百五十海里も離れ、食糧も飲料水もなかった。
この時、ジャワ海にはすでに一隻の米英欄連合軍艦船は存在しなかった。
だから、我々は、オランダの飛行艇がきっと救助に来てくれるだろうと盲信していました。

しかし、一夜を明かし、夜明け前になると精気が減退し、沈鬱な気分になっていきました。
死後を想い、その時には、優しかった祖父に会えることをひそかに願うようになっていました。
翌日、われわれは赤道近くにいたため、日が昇りはじめるとまた猛暑の中にいました。
仲間の一人が遂に耐えられなくなって、軍医長に、自殺のための劇薬を要求し始めた。
軍医長はこの時、全員を死に至らしめてまだ余りある程の劇薬を携行していました。

このような情況の中、そこに偶然、通りかかったのが、工藤艦長の駆逐艦「雷」でした。
二番見張りと四番見張りからそれぞれ、
「浮遊物は漂流中の敵将兵らしき。」
「漂流者四〇〇以上。」
と次々に報告が入りました。

工藤艦長は「潜望鏡は見えないか。」と見張りと探信員に再確認を指示し、敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、午前十時頃「救助!」と命じました。
漂流していたフォール卿は午前十時、突然二百ヤード(約百八十M)のところに日本の駆逐艦が現れた時、幻ではないかと思い、自分の目を疑いました。
そして銃撃を受けるのではないかという恐怖を覚えていました。

ここで工藤艦長は、日本海軍史上極めて異例の号令をかけました。
「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意。」
工藤氏は、浅野市郎先任将校に救助全般指揮をとらせ、谷川清澄航海長に後甲板を、田上俊三砲術長に中甲板における救助の指揮をとらせます。

当時、雷に乗艦していた佐々木確治一等水兵(当時二十一歳)が次のように回想しています。

筏が艦側に近づいてきたので『上がれ!』と怒鳴り、縄梯子を出しましたが、誰も上がろうとしません。
敵側から、ロープを送れの手信号があったのでそうしましたら、筏上のビヤ樽のような高級将校(中佐)にそれを巻き付け、この人を上げてくれの手信号を送ってきました。
五人がかりで苦労して上げましたら、この人は『エクゼター』副長で、怪我をしておりました。
それから、『エクゼター』艦長、『エンカウンター』艦長が上がってきました。
その後敵兵はわれ先に『雷』に殺到してきました。

一時、パニック状態になったが、ライフジャケットをつけた英海軍の青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然となりました。
この人は、独力で上がれない者には、われわれが差し出したロープを手繰り寄せて、負傷者の身体に巻き、そして、引けの合図を送り、多くの者を救助をしておりました。
『さすが、イギリス海軍士官』と、思いました。
彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。

艦に上がってきた順序は、最初が『エクゼター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿が青年士官という順でした。
当初、『雷』は自分で上がれる者を先にあげ、重傷者はあとで救助しようとしたんですが、彼らは頑として応じなかったのです。
その後私は、ミッドウェー海戦で戦艦『榛名』の乗組員として、カッターで沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、この光景と対象的な情景を目にしました。


浮遊木材にしがみついていた重傷者が、最後の力を振り絞って「雷」の舷側に泳ぎ着いて、「雷」の乗組員が支える竹竿に触れるや、安堵したのか、ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまいました。
甲板上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」と呼びかけます。この光景を見かねて、二番砲塔の斉藤光一等水兵(秋田出身)が、海中に飛び込み、続いて二人がまた飛び込んでいきました。
立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻き付けた。

艦橋からこの情景を見ていた工藤艦長は決断します。
「先人将校!重傷者は、内火艇で艦尾左舷に誘導して、デリック(弾薬移送用)を使って網で後甲板に釣り上げろ!」
この期に及んで敵も味方もありませんでした。
そこには、救助すべき人がいただけでした。

甲板上には負傷した英兵が横たわり、「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者もいました。
一方、甲板上の英国将兵には、早速、水と食糧が配られたが、ほとんどの者が水をがぶ飲みしました。
救助されたという安堵も加わって、その消費量は三トンにものぼりました。

便意を催す者も続出しました。
工藤艦長は先任下士官に命じて、右舷舷側に長さ四メートルの張り出し便所を着工させました。
工藤艦長は全甲板に大型の天幕を張らせて、そこで負傷者を休ませました。
艦が走ると風も当たり心地よいのですが、これで雷の全甲板の主砲は使えなくなりました。


フォール卿が語ります。

私は当初、日本人というのは、野蛮で非人情、あたかもアッチラ部族かジンギスハンのようだと思っていました。『雷』を発見した時、機銃掃射を受けていよいよ最後を迎えるかとさえ思っていました。
ところが、『雷』の砲は一切自分達に向けられず、救助艇が降ろされ、救助活動に入ったのです。

駆逐艦の甲板上では大騒ぎが起こっていました。
水平たちは舷側から縄梯子を次々と降ろし、微笑を浮かべ、白い防暑服とカーキ色の服を着けた小柄で褐色に日焼けした乗組員がわれわれを温かく見つめてくれていたのです。
艦に近づき、われわれは縄梯子を伝わってどうにか甲板に上がることができました。
我々は油や汚物にまみれていましたが、水兵たちは我々を取り囲み、嫌がりもせず元気づけるように物珍しげに見守っていました。

それから木綿のウエス(布)と、アルコールをもってきて我々の身体についた油を拭き取ってくれました。
しっかりと、しかも優しく、それは全く思いもよらなかったことだったのです。
友情あふれる歓迎でした。

私には緑色のシャツ、カーキ色の半ズボンと、運動靴が支給されました。
これが終わって、甲板中央の広い処に案内され、丁重に籐椅子を差し出され、熱いミルク、ビール、ビスケットの接待を受けました。
私は、まさに『奇跡』が起こったと思い、これは夢でないかと、自分の手を何度もつねったのです。

間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられました。
すると、キャプテン・シュンサク・クドウが、艦橋から降りてきて我々に端正な挙手の敬礼をしました。
我々も遅ればせながら答礼しました。

キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチされたのです。
You had fought bravely.
Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.
I respect the English Navy,but your government is foolish make war on Japan.
(諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである)

フォール卿はさらに、目を潤ませて語ります。
『雷』はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、乗組員総出で救助してくれました。


「雷」はもはや病院船となったと言っても過言ではありませんでした。
「雷」の上甲板面積は約千二百二十二平方メートル、この約六十%は艦橋や主砲等の上部構造物が占めます。
実質的に使えるスペースは、四百八十八平方メートル前後です。
そこに、約三百九十人の敵将兵と、これをケアーする「雷」の乗組員を含めると一人当りのスペースは驚く程狭いものでした。
工藤艦長は敵将校たちに「雷」の士官室の使用も許可しました。

蘭印攻略部隊、指揮官高橋伊望中将は、この日夕刻四時頃、「エクゼター」「エンカウンター」の両艦長を「雷」の付近を行動中の重巡「足柄」に移乗するよう命令を下しました。
舷門付近で見送る工藤艦長と、両艦長はしっかりと手を握り、互いの武運長久を祈りました。
高橋中将は双眼鏡で、「足柄」艦橋ウイングから接近中の「雷」を見て、甲板上にひしめき合う捕虜の余りの多さに、唖然としていました。

この時、第三艦隊参謀で工藤俊作と同期の山内栄一中佐が高橋中将に、
「工藤は兵学校時代からのニックネームが『大仏』であります。非常に情の深い男であります」と言い、高橋司令長官を笑わせました。
高橋中将は
「それにしても、物凄い光景だ。自分は海軍に入っていろいろなものを見てきたが、この光景は初めてだ」と話していたといいます。

救助された英兵たちは、停泊中のオランダの病院船「オプテンノート」に引き渡されました。
移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をしました。
また、向きを変えてウイングに立つ工藤艦長に敬礼して「雷」をあとにしました。

工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をしていました。
これに比べて兵の方は気ままなもので、「雷」に向かって手を振り、体一杯に感謝の意を表していました。
「エグゼター」の副長以下重傷者は担架で移乗していきました。

特に工藤艦長は、負傷して横たわる「エグゼター」の副長を労い、艦内で療養する間、当番兵をつけて身の回りの世話をさせていました。
副長も「雷」艦内で、涙をこぼしながら工藤の手を握り、感謝の意を表明していたといいます。

「雷」は、一九四四年(昭和十九年)四月十三日、船団護衛中にグアム島の西で米潜水艦「ハーダー」(USS Harder, SS-257)の雷撃を受け沈没しました。
乗員は全員戦死しました。
工藤艦長は、一九四二年に「雷」艦長の任を解かれたのち、海軍施設本部部員、横須賀鎮守府総務部第一課勤務、海軍予備学生採用試験臨時委員を命じられ、一九四四年十一月から体調を崩し、翌年三月十五日に待命となって終戦を迎えます。

戦後、工藤氏は故郷で過ごしていましたが、妻の姪が開業した医院で事務の仕事に就くため埼玉県川口市に移りました。
一九七九年に胃癌のため死去。

工藤艦長は生前、この雷での救助の事実を、家族にも話していませんでした。
理由は、雷がその後戦没しており多くの乗組員が犠牲になったという自戒の念からだったといいます。
ご家族がこの話を聞いたのは、助けられたフォール卿からです。

日本は、過去の戦争を武士として戦いました。
武士の誇りを持って戦ったのです。
武士だから、自らの口からは、戦時中の多くを語りませんでした。
特に名誉と思われる行為を、自慢するように話をする事は決してしませんでした。

だからと言って、工藤艦長の名誉ある行動、真実の行為が歴史から消える事はありません。
フォール卿によって伝えられた真実を、工藤艦長のご家族だけでなく、私たち日本人全員が、これからは伝えていくからです。


おしまい。




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皇紀2670年2月9日

テーマ: 歴史

ジャンル: 政治・経済

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