ダメ人間のつぶやき

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日本の武士像精神(エクゼターとエンカウンター) 

まいど。

本日は日本の心をつたえるいい話シリーズいきます。
中学生向けです。



日本の武士像精神
(エクゼターとエンカウンター)


二〇〇八年十二月七日、元英国海軍中尉サムエル・フォール卿(八九)は六十六年の時を経て、埼玉県川口市内の工藤俊作氏の墓前に、念願の墓参りを遂げ、感謝の思いを伝えました。
大英帝国海軍中尉サムエル・フォール卿は、戦後英国外交官を務め、その功績によって「サー」の称号を贈られている人物です。外交官定年退職後、一九九六年に自伝「マイ・ラッキー・ライフ」を上梓。
彼は、その本の巻頭に 
「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」
と記しています。

そしてサムエル・フォール卿は、工藤俊作氏を、「命の恩人である」として、自らの体験談を綴りました。

フォール卿サー・サミュエル・フォール


体験談

一九四二年三月一日、英重巡洋艦「エクゼター」(一三,〇〇〇トン)、「エンカウンター(一,三五〇トン)は、ジャワ海脱出を試みて日本海軍の艦隊と交戦し、相次いで撃沈されました。
そして両艦艦長を含む約四五〇人の英海軍将兵が漂流の身となります。

翌三月二日、午前十時ごろには、彼らは生存と忍耐の限界に達し、一部の将兵は自決のための劇薬を服用しようとまでしていました。
そのとき、偶々、単艦でこの海域を哨戒中であった日本の駆逐艦「雷」が、漂流している英国乗組員を発見します。
いかづち駆逐艦「雷(いかづち)」

日本の駆逐艦「雷」の乗員は二百二十名。
漂流する敵将兵は四百五十名余。
さらにこの海面には、敵潜水艦が多数徘徊しており、艦を停止させること自体、自殺行為に等しかったそうです。

しかし、「雷」艦長の工藤俊作少佐(当時)は、敵英国水兵の救助を決断し、艦を停止します。
そして敵兵を自艦に救助します。
工藤艦長工藤艦長

救助の時点で、工藤艦長は、英国兵達の体力が限界に達している事に気づきます。
そこで万一のためにと警戒にあたらせていた要員も救助活動に投入しました。

一部の英海軍将兵は、艦から降ろした縄はしごを自力で登ることすらできませんでした。
そこで、竹ざおを下し、いったんこれにしがみつかせ、艦載ボートで救助しようとしたが、力尽きて海に沈んで行く者もありました。
その様子を見た工藤艦長は、下士官を海に飛び込ませます。
そして、気絶寸前の英海軍将兵をロープで固縛し艦上に引き上げました。

サムエル・フォール卿は、当時の状況をこう回顧しています。

「雷」が眼前で停止した時、「日本人は残虐」と言う潜入感があったため「機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と頭上をかばうかのように両手を置いてうつむこうとした。
ところが「雷」は、メインマストに「救助活動中」の国際信号旗が掲揚し、ボートを下しました。
私はこの瞬間を、夢ではないかと思った。
何度も自分の腕をつねった。

さらに艦上ではサー・フォールを一層感動させる光景があった。
日本海軍水兵達が汚物と重油にまみれた英海軍将兵をまったく嫌悪せず、服を脱がせてその身体を丁寧に洗浄し、また艦載の食料、被服、全てを提供し労っていた。
当時「石油の一滴は血の一滴」と言われていた中で、「雷」の工藤艦長は艦載のガソリンと真水をおしげもなく使用させていた。

戦闘海域における救助活動というのは、下手をすれば敵の攻撃を受け、自艦乗員もろとも自沈します。
実際、そういうケースは多々あります。
だから、そうとう温情あふれる艦長でさえ、ごく僅かの間だけ艦を停止し、自力で艦上に上がれる者だけを救助するのが戦場の常識です。

ところが工藤艦長は違いました。
艦を長時間停泊させ、全乗組員を動員して、洋上の遭難兵を救助したのです。
しかも、その相手は味方将兵ではなく、敵将兵です。

それだけではありません。
工藤艦長は潮流で四散した敵兵を探して終日行動し、例え一人の漂流者を発見しても、必ず艦を止め救助しました。
この工藤艦長の救助は、戦場の常識ではありえないことだったのです。

そして、四百二十二名が救助されました。
救命活動が一段落したとき、工藤艦長は、前甲板に英海軍士官全員を集めて、英語でこう訓辞したといいます。

「貴官らはよく戦った。
貴官らは本日、日本帝国海軍のゲストである。」
そして艦載の食料の殆どを供出して歓待してくれた。

フォール卿はこの艦長への恩が忘れられず、戦後、工藤俊作艦長の消息を捜し続けてきたそうです。


 工藤俊作艦長の人生


工藤俊作艦長は、明治三十四年一月七日、山形県の生まれです。
工藤俊作氏は、明治四十一年四月に屋代尋常小学校に入学します。
明治四十三年四月十五日に第六潜水艇の事故があり、当時屋代尋常小学校では、校長が全校生徒に第六潜水艇佐久間艇長の話を伝えたそうです。
校長は、責任感の重要性を話し、全校生徒は呉軍港に向かって最敬礼しました。

工藤俊作氏はこの朝礼のあと、担任の先生に聞いたそうです。
「平民でも海軍仕官になれますか。」
担任の先生は、米沢興譲館中学(現:山形県立米沢中学校)への進学を勧めたそうです。
そして、工藤氏は五年間、現在の上新田にあった親類の家に下宿して、約三キロの道のりを毎日徒歩で通学し、念願の海軍兵学校に入学します。

当時、一流中学校の成績抜群で体力のすぐれた者が志すのは、きまって海軍兵学校への受験でした。
次が陸軍仕官学校、それから旧制高等学校、ついで大学予科、専門学校の順でした。
この時代、欧米の兵学校は、貴族の子弟しか入校できませんでした。

ところが、日本は、学力と体力さえあれば、誰でも兵学校に入校できました。
英国のダートマス、米国のアナポリス、日本の江田島、これらは戦前世界三大海軍兵学校の代名詞とされていたと言います。

工藤俊作氏は、大正九年に海軍兵学校に入学します。
その前年の大正八年、鈴木貫太郎中将(後の総理大臣)が校長として赴任していました。
海軍兵学校校長に着任した鈴木貫太郎氏は、大正八年十二月、兵学校の従来の教育方針を大改新しました。

・鉄拳制裁の禁止
・歴史および哲学教育強化
・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)

工藤ら五十一期生は、この教えを忠実に守り、鉄拳制裁を一切行わなかったばかりか、下級生を決してどなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導する姿勢を身につけました。
鈴木中将は 明治天皇が、水師営の会見の際「敵将ステッセルに武士の名誉を保たせよ」と御諚され、ステッセル以下列席した敵軍将校の帯剣が許されたことを生徒に語ったといいます。

海軍兵学校を卒業した工藤俊作氏は、駆逐艦「雷」の艦長として、昭和十五年十一月着任します。
工藤は駆逐艦艦長としてはまったくの型破りで、乗組員たちはたちまち魅了されたといいます。

工藤艦長の着任の訓示。
「本日より、本官は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する。」

乗組員たちは、当初工藤をいわゆる「軟弱」ではないかと疑いましたが、工藤は決断力があり、当時官僚化していた海軍でも上に媚びへつらうことを一切しませんでした。
また、工藤氏は酒豪で、何かにつけて宴会を催し、仕官兵の区別なく酒を酌み交わしました。
好物は魚の光り物(サンマ、イワシ等)で、仕官室の食堂には、めったに出ないので、兵員食堂で光り物が出る時、伝令の光り物と自分のエビや肉を交換したり、自ら兵員食堂まで仕官室の皿を持って行って「誰か交換せんか」と言ったりもしました。

工藤氏は日頃士官や先任下士官に対して、
「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな。」と口癖のように言っていたといいます。
見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ。」と誉めました。
このため、見張りはどんな微細な異変についても先を争って艦長に報告していたといいます。

2ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは、工藤を慈父のように慕いました。
「オラが艦長は」と自慢するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになっていきました。
艦内の士気は日に日に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していきました。

昭和十六年十二月八日に大東亜戦争開戦。
開戦の二日後、日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の「不沈艦プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈しました。

英国の駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助を始めました。
日本の航空隊は救助活動にはいると一切妨害せず、それどころか、手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送りました。
さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガポールに帰港する際にも、日本軍は上空から視認していたが、一切攻撃をしませんでした。
こうした日本海軍の武士道は、英国海軍の将兵を感動させました。

フォール卿は語ります。
艦長とモーターボートに乗って脱出しました。
その直後、小さな砲弾が着弾してボートは壊れました。
この直後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。
間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けました。
固唾をのんで見つめておりましたが、何事もせず去っていきました。

私たちは救命浮舟に5~6人でつかまり、首から上を出していました。
見渡す限り海また海です。
救命艇も見えず、陸岸から百五十海里も離れ、食糧も飲料水もなかった。
この時、ジャワ海にはすでに一隻の米英欄連合軍艦船は存在しなかった。
だから、我々は、オランダの飛行艇がきっと救助に来てくれるだろうと盲信していました。

しかし、一夜を明かし、夜明け前になると精気が減退し、沈鬱な気分になっていきました。
死後を想い、その時には、優しかった祖父に会えることをひそかに願うようになっていました。
翌日、われわれは赤道近くにいたため、日が昇りはじめるとまた猛暑の中にいました。
仲間の一人が遂に耐えられなくなって、軍医長に、自殺のための劇薬を要求し始めた。
軍医長はこの時、全員を死に至らしめてまだ余りある程の劇薬を携行していました。

このような情況の中、そこに偶然、通りかかったのが、工藤艦長の駆逐艦「雷」でした。
二番見張りと四番見張りからそれぞれ、
「浮遊物は漂流中の敵将兵らしき。」
「漂流者四〇〇以上。」
と次々に報告が入りました。

工藤艦長は「潜望鏡は見えないか。」と見張りと探信員に再確認を指示し、敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、午前十時頃「救助!」と命じました。
漂流していたフォール卿は午前十時、突然二百ヤード(約百八十M)のところに日本の駆逐艦が現れた時、幻ではないかと思い、自分の目を疑いました。
そして銃撃を受けるのではないかという恐怖を覚えていました。

ここで工藤艦長は、日本海軍史上極めて異例の号令をかけました。
「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意。」
工藤氏は、浅野市郎先任将校に救助全般指揮をとらせ、谷川清澄航海長に後甲板を、田上俊三砲術長に中甲板における救助の指揮をとらせます。

当時、雷に乗艦していた佐々木確治一等水兵(当時二十一歳)が次のように回想しています。

筏が艦側に近づいてきたので『上がれ!』と怒鳴り、縄梯子を出しましたが、誰も上がろうとしません。
敵側から、ロープを送れの手信号があったのでそうしましたら、筏上のビヤ樽のような高級将校(中佐)にそれを巻き付け、この人を上げてくれの手信号を送ってきました。
五人がかりで苦労して上げましたら、この人は『エクゼター』副長で、怪我をしておりました。
それから、『エクゼター』艦長、『エンカウンター』艦長が上がってきました。
その後敵兵はわれ先に『雷』に殺到してきました。

一時、パニック状態になったが、ライフジャケットをつけた英海軍の青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然となりました。
この人は、独力で上がれない者には、われわれが差し出したロープを手繰り寄せて、負傷者の身体に巻き、そして、引けの合図を送り、多くの者を救助をしておりました。
『さすが、イギリス海軍士官』と、思いました。
彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。

艦に上がってきた順序は、最初が『エクゼター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿が青年士官という順でした。
当初、『雷』は自分で上がれる者を先にあげ、重傷者はあとで救助しようとしたんですが、彼らは頑として応じなかったのです。
その後私は、ミッドウェー海戦で戦艦『榛名』の乗組員として、カッターで沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、この光景と対象的な情景を目にしました。


浮遊木材にしがみついていた重傷者が、最後の力を振り絞って「雷」の舷側に泳ぎ着いて、「雷」の乗組員が支える竹竿に触れるや、安堵したのか、ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまいました。
甲板上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」と呼びかけます。この光景を見かねて、二番砲塔の斉藤光一等水兵(秋田出身)が、海中に飛び込み、続いて二人がまた飛び込んでいきました。
立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻き付けた。

艦橋からこの情景を見ていた工藤艦長は決断します。
「先人将校!重傷者は、内火艇で艦尾左舷に誘導して、デリック(弾薬移送用)を使って網で後甲板に釣り上げろ!」
この期に及んで敵も味方もありませんでした。
そこには、救助すべき人がいただけでした。

甲板上には負傷した英兵が横たわり、「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者もいました。
一方、甲板上の英国将兵には、早速、水と食糧が配られたが、ほとんどの者が水をがぶ飲みしました。
救助されたという安堵も加わって、その消費量は三トンにものぼりました。

便意を催す者も続出しました。
工藤艦長は先任下士官に命じて、右舷舷側に長さ四メートルの張り出し便所を着工させました。
工藤艦長は全甲板に大型の天幕を張らせて、そこで負傷者を休ませました。
艦が走ると風も当たり心地よいのですが、これで雷の全甲板の主砲は使えなくなりました。


フォール卿が語ります。

私は当初、日本人というのは、野蛮で非人情、あたかもアッチラ部族かジンギスハンのようだと思っていました。『雷』を発見した時、機銃掃射を受けていよいよ最後を迎えるかとさえ思っていました。
ところが、『雷』の砲は一切自分達に向けられず、救助艇が降ろされ、救助活動に入ったのです。

駆逐艦の甲板上では大騒ぎが起こっていました。
水平たちは舷側から縄梯子を次々と降ろし、微笑を浮かべ、白い防暑服とカーキ色の服を着けた小柄で褐色に日焼けした乗組員がわれわれを温かく見つめてくれていたのです。
艦に近づき、われわれは縄梯子を伝わってどうにか甲板に上がることができました。
我々は油や汚物にまみれていましたが、水兵たちは我々を取り囲み、嫌がりもせず元気づけるように物珍しげに見守っていました。

それから木綿のウエス(布)と、アルコールをもってきて我々の身体についた油を拭き取ってくれました。
しっかりと、しかも優しく、それは全く思いもよらなかったことだったのです。
友情あふれる歓迎でした。

私には緑色のシャツ、カーキ色の半ズボンと、運動靴が支給されました。
これが終わって、甲板中央の広い処に案内され、丁重に籐椅子を差し出され、熱いミルク、ビール、ビスケットの接待を受けました。
私は、まさに『奇跡』が起こったと思い、これは夢でないかと、自分の手を何度もつねったのです。

間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられました。
すると、キャプテン・シュンサク・クドウが、艦橋から降りてきて我々に端正な挙手の敬礼をしました。
我々も遅ればせながら答礼しました。

キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチされたのです。
You had fought bravely.
Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.
I respect the English Navy,but your government is foolish make war on Japan.
(諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである)

フォール卿はさらに、目を潤ませて語ります。
『雷』はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、乗組員総出で救助してくれました。


「雷」はもはや病院船となったと言っても過言ではありませんでした。
「雷」の上甲板面積は約千二百二十二平方メートル、この約六十%は艦橋や主砲等の上部構造物が占めます。
実質的に使えるスペースは、四百八十八平方メートル前後です。
そこに、約三百九十人の敵将兵と、これをケアーする「雷」の乗組員を含めると一人当りのスペースは驚く程狭いものでした。
工藤艦長は敵将校たちに「雷」の士官室の使用も許可しました。

蘭印攻略部隊、指揮官高橋伊望中将は、この日夕刻四時頃、「エクゼター」「エンカウンター」の両艦長を「雷」の付近を行動中の重巡「足柄」に移乗するよう命令を下しました。
舷門付近で見送る工藤艦長と、両艦長はしっかりと手を握り、互いの武運長久を祈りました。
高橋中将は双眼鏡で、「足柄」艦橋ウイングから接近中の「雷」を見て、甲板上にひしめき合う捕虜の余りの多さに、唖然としていました。

この時、第三艦隊参謀で工藤俊作と同期の山内栄一中佐が高橋中将に、
「工藤は兵学校時代からのニックネームが『大仏』であります。非常に情の深い男であります」と言い、高橋司令長官を笑わせました。
高橋中将は
「それにしても、物凄い光景だ。自分は海軍に入っていろいろなものを見てきたが、この光景は初めてだ」と話していたといいます。

救助された英兵たちは、停泊中のオランダの病院船「オプテンノート」に引き渡されました。
移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をしました。
また、向きを変えてウイングに立つ工藤艦長に敬礼して「雷」をあとにしました。

工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をしていました。
これに比べて兵の方は気ままなもので、「雷」に向かって手を振り、体一杯に感謝の意を表していました。
「エグゼター」の副長以下重傷者は担架で移乗していきました。

特に工藤艦長は、負傷して横たわる「エグゼター」の副長を労い、艦内で療養する間、当番兵をつけて身の回りの世話をさせていました。
副長も「雷」艦内で、涙をこぼしながら工藤の手を握り、感謝の意を表明していたといいます。

「雷」は、一九四四年(昭和十九年)四月十三日、船団護衛中にグアム島の西で米潜水艦「ハーダー」(USS Harder, SS-257)の雷撃を受け沈没しました。
乗員は全員戦死しました。
工藤艦長は、一九四二年に「雷」艦長の任を解かれたのち、海軍施設本部部員、横須賀鎮守府総務部第一課勤務、海軍予備学生採用試験臨時委員を命じられ、一九四四年十一月から体調を崩し、翌年三月十五日に待命となって終戦を迎えます。

戦後、工藤氏は故郷で過ごしていましたが、妻の姪が開業した医院で事務の仕事に就くため埼玉県川口市に移りました。
一九七九年に胃癌のため死去。

工藤艦長は生前、この雷での救助の事実を、家族にも話していませんでした。
理由は、雷がその後戦没しており多くの乗組員が犠牲になったという自戒の念からだったといいます。
ご家族がこの話を聞いたのは、助けられたフォール卿からです。

日本は、過去の戦争を武士として戦いました。
武士の誇りを持って戦ったのです。
武士だから、自らの口からは、戦時中の多くを語りませんでした。
特に名誉と思われる行為を、自慢するように話をする事は決してしませんでした。

だからと言って、工藤艦長の名誉ある行動、真実の行為が歴史から消える事はありません。
フォール卿によって伝えられた真実を、工藤艦長のご家族だけでなく、私たち日本人全員が、これからは伝えていくからです。


おしまい。




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皇紀2670年2月9日

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テーマ: 歴史

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コメント

また涙がぁ~~

この物語は、いつ見ても良いですよねっ!
私が始めて知ったのは、このテレビをみてです。

あきちゃっさん、今日もご紹介有り難う!!
読みながら、また涙・涙でした。

この工藤艦長みたいな人がかっていたことは、
日本人の誇りですよねっ。
これからも、次の世代に語りつながねばいけません。
私たちの使命ですねぇ~!

2010.02.10 Wed 00:35 : URL : スカーレット #zwRScLrQ : 編集 :

ハンケチはタオル生地で(´∀`*)

本当に、日本人には素晴らしい人が多かった。
敗戦により、ダメ人間化教育が滞りなく行われている。

米国・特アからの一刻も早い独立を熱望します><
2010.02.10 Wed 11:32 : URL : あきちゃっ #- : 編集 :

更新がんばってください♪ブログはじめたばかりなので先輩ですね^^ちょくちょくのぞきにきまぁっす★
2010.05.18 Tue 16:55 : URL : ピン太郎 #- : 編集 :

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