ダメ人間のつぶやき

日本大好きなダメ人間 MMORPGアスガルドやりながら愛国運動中!!

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天秤棒を担いで270km 日本オルガン物語 

まいど。

昨日は津波が予報ほどの規模のものではなく、大きな被害もなく良かったです。

津波警報・注意報でTBSだけが「対馬」を表示せず
http://rocketnews24.com/?p=26221


昨日は1日中テレビ放送には日本地図と警報情報が表示されていましたが、なんと、、TBSは日本列島から対馬を削除した地図を終始表示していたようです。
TBS内部はほとんど在日朝鮮人に支配されていることは有名ですから、このような小細工は今後も続くことでしょう。
ありもしない韓流ブームをいつまでも続けておりますから、、、、

昔見た映画「ネゴシエイター」を見たくて昨日見ておりましたが、日本地図が邪魔でした、、、
放送局、やりすぎでしょ、、、、


フィギュアスケートのヨナのありえない高得点には世界中が呆れているのではないでしょうか、、、


それでは前置きが長くなりましたが、本日はいい話をお届けいたします。
中学生向け という設定でお願いいたします、、、


天秤棒を担いで270km 日本オルガン物語

山葉山葉寅楠

 「ヤマハ」といえば、いわずとしれた楽器メーカーです。
 今では自動車のエンジンやバイク、クルーザーなども作っている世界的なメーカーです。


 ところで、皆さんは「ヤマハ」というのが、創業者の名字を由来としている事を知っていますか。
 山葉(ヤマハ)という称号は、創業者である山葉寅楠(やまはとらくす)の名字からとったものです。
 寅楠という名前は、南方熊楠(みなかたくまくす)という高名な植物学・民俗学者や、横井小楠(よこいしょうなん)という儒学者・政治家に習い、楠木正成にならって付けられた名前なのだそうです。

 「ヤマハ」の創業時の名前は「山葉風琴製造所(やまはふうきんせいぞうじょ)」です。
 「風琴(ふうきん)」というのは、オルガンのことです。
 オルガンを“風を送って音を出す琴”という楽器として捉えていたのだと考えられます。

 創業者の山葉寅楠は、嘉永4(1851)年、紀州徳川藩で生まれました。
 父親は、天文暦数や土地測量・土木設計などの天文方を勤めていた人です。
 山葉寅楠は、宮本武蔵のファンでもあったようです。16歳で二天一流の修行に出たそうです。

 しかし明治維新で家が没落してしまいました。
 山葉寅楠は、二十歳のときに大阪に出て、時計や医療器具などの精密機械修理を学びます。
 学んだのは良いのですが、肝心の仕事がありませんでした。
 彼は技術者として職を求めて、全国各地を転々とします。

 そんなときに、山葉は、友人から静岡県浜松市で県立病院の修理工を捜しているとの知らせをもらいます。
 明治17(1884)年、寅楠35歳のときのことです。

 静岡県の県立病院で修理工として働いている頃、明治政府の意向で小学校に随意科目として唱歌科がもうけられていました。
 浜松尋常小学校(現・浜松市立元城小学校)でも唱歌のためのオルガンを輸入しました。

 輸入したオルガンはもちろん外国製です。
 しかもとても高価な品物です。
 当時としては珍しい物でもありましたので、この高価な風琴(オルガン)を、小学校が買ったことは、静岡県中に広まります。
 そして、各地から大勢の人が見学に訪れました。

 ところが、このオルガンは、すぐに故障してしまいました。
 修理したいのですが、この外国製の輸入オルガンの部品もなければ、修理ができる人もいませんでした。
 とても高価な貴重品です。
 万一修理に失敗でもしたら、それこそとりかえしがつきません。

 困った小学校関係者は、ある日、浜松県立病院に精密機器の修理工がいるという話を聞きつけます。
 そして、精密機器修理工である山葉寅楠のもとに、オルガンの修理依頼が来ました。
 時計や医療器具のような精密機械を修理のできる山葉寅楠なら、初めてであっても大きなオルガンを直せるだろうと、学校関係者は考えたわけです。

 今にしてみれば、かなり乱暴な話ですが、日本国内でオルガンを製造していない時代の人たちにしてみれば、まさに真剣そのものです。
 そして、山葉寅楠にとっても、そんな見たこともない貴重なオルガンを、どうやって直すのか知っているはずもなく、とても不安な気持ちでいました。

 周りの人が心配そうに見守る中、寅楠は、オルガンを点検します。
 そして内部のバネが二本壊れているだけだとすぐに見抜きました。
 そして、面白いことに、寅楠は、「これならバネだけでなく、オルガンそのものも俺にも作れそうだ。」と思い立ちます。

 「アメリカ製のオルガンは45円もする。自分なら3円ぐらいでつくることができる!」
 そのように寅楠は思ったそうです。

 明治10年代の白米10キロの値段が50銭です。
 今だと5000円くらいの値段ですので、単純に貨幣価値換算をするだけでも、オルガン45円は45万円になります。
 当時は台数も少なく、誰でも作れるものではありませんでしたので、今での450万円ぐらいの値段以上の価値があったかもしれません。
 そのオルガンをわずか15分の1の値段で作れると寅楠は考えたのです。一度も作った事がないのにも関わらずです。

 そして、寅楠は決心します。
 「将来オルガンは全国の小学校に設置されるだろう。これを国産化できれば国益にもなる。」
 この寅楠の考え方は、非常に興味深いと言えます。
 オルガンの市場性や自分自身の利益のみに着目するのではなく、オルガン作りが「国益になる」と普通に考えています。

 この時の寅楠は、政治家でもなければ、大企業の社長でもありません。
 ただの精密機器の修理工です。
 その一介の職人さんの意識の中にも、自分の行動を「お国のために」と考えるという精神構造があったのです。

 寅楠の活躍した時代は明治の始めです。
 つまり、寅楠は江戸時代に教育を受けた人です。
 江戸の昔から、日本人には、「国のため」「公益に尽くす」という考え方があったのです。
 よく「お国のため、という思考は、大東亜戦争直前の軍国主義教育のたまものである」という人がいます。
 しかし、この寅楠の考え方をみると、戦争だから、軍事主義教育だからではなく、当時は普通の事として、国のために何かをするという考え方が庶民の中にもあったのです。

 さて、オルガンを初めて見た翌日から寅楠は、来る日も来る日もオルガンの内部を調べます。
 修理すべきバネだけではありません。
 いろいろな部分を細かく図面に書き写しました。
 日本では一度も作られた事のないオルガンを自分の力で作るために、設計図が必要だったのです。

 約一ヵ月が経って、ようやく何十枚もの図面を書き終えた寅楠は、壊れたバネの修理に取りかかりました。
 バネそのものの修理は、冶金術が発達していた日本では、そんなに難しい事ではありませんでした。
 寅楠の修理は成功します。見事にオルガンを直したのです。

 「山葉さん、すばらしい。ありがとう!」
 「いいえ、校長先生。私の方こそお礼を言いたいくらいです。おかげでオルガンを知ることができたのですから。」

 山葉寅楠も、内心喜んでいました。
 これでオルガンを作ることができるようになったからです。
 しかし、一介の修理工である寅楠には、オルガンを作るための資金がありませんでした。
 あちこち尋ね歩いて、協力を求めますが、多くの人が「おまえは気でも狂ったか」という中、5日ほどたったある日、寅楠は飾り職人である小杉屋の河合喜三郎をたずねます。
 そして「力を貸してほしい」と頼み込みます。
 河合喜三郎は「寅楠の熱意と腕にかけてみよう!」と決心して、協力する事にします。

 こうして、翌日から河合の小杉屋の仕事場を借りてオルガン作りが始まりました。
 とりあえず資金と場所は確保できたけれど、二人には満足な材料もなければ道具もない。
 あるのは、修理の時に製作した図面と、日本国産のオルガンを作ってやろうという情熱だけです。

 寅楠は朝4時から夜中の2時まで、ほとんど徹夜でひとつひとつ工夫しながら部品を作っていきました。
 そして二ヵ月かかって、やっとオルガンの第一号を完成させます。
 寅楠は、真っ先に元城小学校へ運び、唱歌の先生に頼んで弾いてもらいます。
 しかし、大成功という訳にはいきませんでした。

 「確かに形はオルガンだが、音がおかしい」
 先生に言われてしまいます。
 そうです。
 調律がなってないのです。

 しかし、無理もありません。
 ドレミの音階そのものが、まだ世に伝わっていない時代です。
 寅楠には、音がおかしいと言われても、何がどうおかしいのか、何をどう直せばいいのかが、さっぱり分かりません。

 そこで寅楠は、めげずに、今度は同じく浜松市内にある静岡師範学校(今の静岡大学教育学部)へオルガンを持っていきます。
 ですが、結果は同じです。
 「音がおかしい」と言われてしまいます。

 オルガンの命は音です。
 その音の何が、どうおかしいのか。
 河合と寅楠にも、肝心なところがさっぱりわかりません。

 「どうすればいいのか・・・。こりゃもっと偉い先生に聞いてみなきゃ分からんかもしれん。」
 寅楠と喜三郎の二人は、作ったオルガンを東京の音楽家に見てもらおうと話し合います。
 見てもらうのなら、音楽取調所(現東京芸術大学)がいいだろうと話し合いました。

 しかし、音楽取調所で、いったい誰に会えばいいのか。
 会うためには、どうすればいいのか。それすらさっぱり分かりません。
 今の時代のように電話なんてものはありません。
 もちろん携帯電話もない。
 104もない。
 インターネットなんてあるはずもありません。

 直接行ったところで、その偉い先生が会ってくれるかどうかも分かりませんでした。
 「とにかく行くしかないだろう。」
 二人は、そう結論付けると、天秤棒にオルガンをぶらさげて、浜松から東京までかついで運ぶことにしました。

 担ぐといっても、100kg近い重量のあるオルガンです。
 2人で協力しても、1人50kgを担がなければなりません。
 とても重い荷物です。
 しかも、道のりは東海道を270kmです。その距離を歩かなければなりません。

 雨の日は動けません。
 風が吹いたらあおられます。
 箱根の山越えは、ずっと坂道の難所です。
 いったい何日かかったのでしょうか。

山葉オルガン山葉オルガン1890年


 苦労の上、ようやく音楽取調所に着いた二人は、オルガンを教授たちに見せました。
 教授たちはびっくりします。
 国産でオルガンをつくってしまったことにも驚きました。
 そのオルガンを、浜松から東京まで担いできたことにも驚きました。
 そして、音が外れていることにも驚きました。

 音程が狂っています。
 音階もおかしい。
 これでは楽器としては使えません。

 西洋音楽を指導していた所長の伊沢修二は、
 「調律が不正解なんだ。あと一歩です。君たち音楽を学習していきなさい。」
 と言いました。

 伊沢所長は彼らのために、親切に宿泊所を提供し、音楽取調所で聴講生となることを許可してくれます。
 寅楠は、調律、音楽理論を必死で学びます。

 そうして1ヶ月後、浜松に帰った寅楠は、先に帰っていた河合喜三郎と協力して、すぐさま2台目のオルガンの製造にとりかかります。
 しかし、今度は途中で資金が底をついてしまいます。

 河合の妻は、資金集めのために親戚中をかけまわって借金をしました。
 河合の妻の衣服も、嫁入り道具の服から普段着まで、ぜんぶ質屋に入れてしまいました。
 残った1着は、着ている1着だけです。
 それを洗濯するときは、もう丸裸になるしかありません。

 そんな河合の親戚は、お前たち気でも狂ったのかと猛反対をしました。
 しかし、山葉寅楠と河合喜三郎は
 「今度こそ立派なオルガンをつくるんだ!」
 「日本の子供たちに音楽を届けるんだ!」
 と心に念じて努力に努力を重ねました。

 そして、二ヵ月後。
 とうとう第二号のオルガンが完成しました。
 「今度は大丈夫だ。しっかりと調律もした。これならきっと認めてもらえる。」
 二人は、そううなづきあうと、天秤棒にオルガンをぶら下げて、再び270kmの道のりを歩いて東京の音楽取調所に向かいました。


天秤棒天秤棒で荷物を運ぶ人


 再び、箱根の山を越えたオルガンは、伊沢所長の前ですばらしい音色を響かせます。
 「山葉さん、すばらしい! よくやりましたね。これなら外国製に負けない見事なオルガンです。これで、全国の小学校へ国産のオルガンを置くことができますよ。」

 やっとできた! 認められた!
 寅楠と河合は、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていました。

 この時代の男は、「男が泣くのは一生に1度だ。」と教わっていました。
 その大の大人のおやじが、うれし涙を誰はばかることなく流していました。

 そして、山葉寅楠はこのオルガンを、国産第1号オルガンとして、そのまま音楽取調所寄贈してしまいます。
 「伊沢所長のおかげで完成したオルガンです。どうか使ってください。」と言うわけです。
 資金がなくて借金だらけの2人が、気前がよくてオルガンを寄贈した訳ではありません。
 嬉しくて嬉しくて仕方がなかった気持ちを、寄贈と言う形にしただけの事です。

 この寄贈を喜んだ伊沢所長は、二人が造ったオルガンを、「国産オルガン製造成功!」と、あちこちに語ります。
 日本音楽界の最高峰「東京芸術大学学長」のお墨付きというレベルではありません。
 学長本人が宣伝をしてくれるのです。

 「国産オルガン製造大成功!」のニュースは、口コミで広がります。
 次第にオルガン製造の注文も来るようになりました。
 注文第1号は、静岡県から5台でした。

 その後も政府の方針によって、文部省唱歌を普及するために、オルガンの需要はうなぎ登りに増えました。
 山葉寅楠と河合は、「山葉風琴製造所」の看板を掲げて、本格的にオルガンの製造にとりかかります。

 わずか1年後には従業員は100名を超え、国内製造だけでなく、ロンドンにまで海外輸出するようにもなっていました。
 二人の努力と周囲の善意が実を結んだのです。
 国のために働こうとする気持ち、それが回りまわって自分のためにもなり、またその事が国のためにもなる。
 当時の日本はそういう社会でした。

 明治22(1889)年、山葉は、東京や大阪の楽器商社と協力して個人商店だった山葉風琴製造所を、「日本楽器製造株式会社」に改組します。
 そしてこの頃から、山葉寅楠はピアノの製造、国産化を目指すようになります。

 伊沢修二所長の紹介で文部省嘱託となった寅楠は、アメリカに渡り、ピアノ工場を見学して、部品を買い付けました。
 帰国した寅楠は、国産ピアノ第1号を作るべく、会社の総力をあげてピアノの製造にとりかかります。

 ピアノの部品には、アメリカで買い付けたものを使用したけれど、ピアノの生命といわれるアクション(響板)だけは日本で開発したものを使用しています。
 その理由は、日本に1人の天才がいたからです。
 響板の製造は、河合の親戚の河合小市が担当しました。
 小市は、後に「河合楽器」を創業した人ですが、この時はまだわずか11歳の少年でした。

 山葉寅楠は明治33(1900)年にはアップライトピアノ、明治35年にはグランドピアノの製造にも成功します。 そして山葉のピアノとオルガンは、アメリカのセントルイス万国博覧会で名誉大牌賞を受賞しました。
 オルガンとピアノの量産化で山葉寅楠は「日本の楽器王」と呼ばれるようになりました。
 山葉寅楠の死後、「日本楽器製造株式会社」は「ヤマハ株式会社」となり世界一の楽器製造を誇る企業へと成長していきます。

 オルガンを天秤棒で担いで、東海道を歩いて運んだ山葉寅楠と河合喜三郎。
 彼ら二人の努力が、全国の小学校にオルガンを普及させ、文部省唱歌を全国に広めました。
 その影響は、今現在でも人々の心に残っています。

 老人ホームに行くと、痴呆症が進んだ老人でも、文部省唱歌を皆で歌うと、目を輝かせて、一緒に歌います。
 歌っているおじいちゃん、おばあちゃんの顔は、そのときばかりは尋常小学校生の顔になっています。
 ヤマハのオルガンで歌った文部省唱歌は、彼らの少年少女時代の共通の思い出でもあるのです。

 何かを一緒にやった仲間というのは、生涯の友になります。
 これは寅楠と喜三郎だけの話ではありません。
 老人ホームで初めて会ったおじいさん、おばあさん同士でも、同じ文部省唱歌を歌った思い出が共有されることで、共通の友になれるのです。

 最近の小中学校では、昔からある文部省唱歌を教えなくなったと聞いたご老人が、嘆いてこんな話をしてくれました。
 「単なる歌かもしれないが、小さい頃の思い出の歌を皆と一緒に歌うのは楽しい。人は一人で生きている訳ではない。人と人との関わりの中で生きている事を思い出させてくれる。私の学校にもオルガンがあった。山奥の学校だったから山道の中を、おじさんたちがオルガンを運んできてくれる日を皆で楽しみに待っていた事を思い出しました。今の子供たちにも、こんな思い出を作ってあげてくれないかね。」

 山葉寅楠と河合喜三郎は、大企業の創始者として名前を刻むと同時に、日本で初めてのオルガン作りに成功した事で、多くの日本人の心に、共通の思い出を刻んでくれました。
 2人が作ったオルガンから始まった日本のオルガン物語、それは、日本の子供たちが、思い出の歌を一緒に歌い続けてきた歴史の物語でもあるのかもしれません。

おしまい。



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皇紀2670年3月1日
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